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	<title>日本人女性 &#8211; フランスシャポー</title>
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	<description>パリ移住経験のあるルバンがフランスの情報をお届けします。</description>
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		<title>彫刻家ロダンは日本人女性を『芸術の素材』として愛した</title>
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		<pubDate>Mon, 27 Aug 2018 05:54:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[francechapeau]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[フランス人男性]]></category>
		<category><![CDATA[ロダン]]></category>
		<category><![CDATA[日本人女性]]></category>

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		<description><![CDATA[日本が開国した明治時代、日本人女性とフランス人を含む欧米の男性の間には人種、ジェンダー、そして不平等条約の壁が...]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>日本が開国した明治時代、日本人女性とフランス人を含む欧米の男性の間には人種、ジェンダー、そして不平等条約の壁がありました。</p>
<p>これらの不平等感に加え、日本人女性とフランス人男性の間には、意思疎通を図ろうとしても、お互いの言葉や文化がわからない、という根本的障害がありました。</p>
<p>明治時代に欧米語の翻訳として、初めて「愛」という言葉が日本語に登場しました。当初は概念だけが一人歩きする形で、欧米の文明の全体像が見えず、実際の交流の歴史もない中で、今日私たちがイメージするような国境を超えた恋愛など考えられない状況でした。</p>
<p>そのような状況の中で、日本人女性と<strong>フランス人男性</strong>の関係は、明治時代において、芸術を通じて始まりました。</p>
<p>その一人が、太田ひさという日本人女性です。ひさは日本に生きていた頃は、特に注目を浴びることはありませんでした。そして 34歳の時渡欧の決意をします。</p>
<p>日本では無名の芸人だったひさは、ヨーロッパやアメリカでは「花子」という名の女優として名声を勝ち取ります。</p>
<p>そしてフランスを代表する彫刻家、ロダンの彫刻のモデルにもなったので、今日でも私たちは彼女の姿を芸術作品として鑑賞することができます。</p>
<p>ロダンは花子の作品を６０点ほど残し、花子はそのうちの２作を日本に持ち帰りました。現在世界各地の美術館に展示されています。</p>
<p>花子の一生については、比較的よく知られています。</p>
<p>ここでは何よりも芸術家同士として触れ合った花子とロダンの関係について、日本人女性とフランス人男性という視点から見直していきます。</p>
<h2>太田ひさの生い立ち</h2>
<p>ひさは江戸末期 (1840年)に生まれ、明治から第二次世界大戦が終結する年1945年までなんと105年にも及ぶ激動の日本を生き抜いた強靭な女性です。</p>
<p>ひさは幼少から34歳で渡欧するまで、明治の多くの女性と同様に、苦労の連続の人生を強いられました。</p>
<p>ひさの生い立ちは幸福とはほど遠いものでした。しかし当時芸事が大変に盛んだった名古屋で育ったため、彼女はのちに欧州で女優として活躍するための土台を築くことができました。</p>
<p>２歳の時親元を離れ、４歳で商家に養子に出されました。その後突如この商家が破産してしまい、ひさの生活は貧しくなりました。</p>
<p><img class="alignleft wp-image-263 size-medium" src="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/芸者-217x300.png" alt="" width="217" height="300" srcset="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/芸者-217x300.png 217w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/芸者-768x1062.png 768w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/芸者-741x1024.png 741w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/芸者-728x1006.png 728w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/芸者.png 926w" sizes="(max-width: 217px) 100vw, 217px" />ひさは９歳で旅芸人の仲間入りをしました。文字が読めないのにセリフを覚え、舞台に立ちました。来る日も来る日も岐阜の山をわらじで登って降りての旅の連続でした。</p>
<p>その結果ひさは幼少期に強靭な体力と演技力を身につけました。</p>
<p>後にロダンを驚嘆させるような脂肪の一切ない、筋肉質の体と迫真に迫る演技力を、この時代の地獄のような旅と演技の毎日の産物だったのです。</p>
<p>ひさは辛い旅芸人としての生活を嫌がったため、12歳で舞妓として売られ、さらに芸を磨いていきました。</p>
<p>そして16歳の時に芸者として独り立ちしました。その後二度結婚しましたが、どちらともうまくいかず離婚しました。</p>
<h2>ひさ、渡欧を決意する</h2>
<p>二度目の離婚の後、 34歳で子供もおらず、身軽な一人身のひさは、デンマークのコペンハーゲンの動物園の見世物興行の踊り子として採用され、自ら渡欧を決断します。</p>
<p>日本人女性が海外へ出ていくのはどのような時か。それは自分の人生にこれ以上にない変化をもたらしたいときです。それまでの人生に何も楽しいことがなかったとき、このような決断をするのはさらに容易いことだったでしょう。</p>
<p>実家から養子に預けられ、その養子先から旅芸人に預けられ、二つの結婚をしましたが子供も生まれませんでした。その結果34歳のひさには恩義を感じるような人のしがらみもありませんでした。</p>
<p>この渡欧の決断には、これまでの、不幸の連続だった人生が背中を押した、と言えましょう。ひさは未知の世界へ飛び込んで行くことが怖くなかったのです。</p>
<h2>ひさ、女優「花子」になる。</h2>
<p>デンマークでの仕事が一段落した後、ほかの人々が帰国する中、ひさは女優としてヨーロッパに居残る決心をしました。</p>
<p><img class="alignleft wp-image-261 size-medium" src="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/北斎-300x207.jpg" alt="" width="300" height="207" srcset="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/北斎-300x207.jpg 300w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/北斎-768x530.jpg 768w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/北斎-1024x706.jpg 1024w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/北斎-728x502.jpg 728w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" />当時のヨーロッパでは美術、工芸品などの日本ブームで湧いており、それがジャポニズムという本格的な芸術運動を巻き起こしていました。</p>
<p>日本ブームは演劇の世界でも同じことでした。そこで、ひさはまず日本人の劇団に端役として加わりました。</p>
<p>その後ヨーロッパにおける日本演劇ブームの火付け役となったイギリスの目利きプロデューサー、フラー女史に認めら、ひさの女優人生は大きく好転していきます。</p>
<p>多くのアジア系俳優を見てきたフラー女史にとって、ひさが特別な存在であることは一眼見てすぐわかったと言います。後にフラー女史は、ひさには「綺麗な、上品な、優雅な、奇妙な個性があった」と書いています。</p>
<p>フラー女史は当時端役のひさを引き抜き、ひさを「花子」と命名し、花子一座を立ち上げ、その看板女優へと仕立て上げました。</p>
<p>ひさの抜擢について、周囲の日本人は理解できませんでした。彼らにとってひさは「子守」か「女中」のようにしか見えなかったと言います。</p>
<p>ひさの渡欧後の人生には、このようにシンデレラ・ストーリーのような側面がありました。</p>
<h2>19世紀末のヨーロッパとハラキリ</h2>
<p>フラー女史は、西欧人のツボにハマるように、ひさが演じていた二流の日本演劇の脚本に手を加えました。</p>
<p>そこで決定的だったのが、フラー女史自ら、ひさが演じていた「芸者の敵討ち」という劇の最後のシーンに、花子のハラキリの場面を書き加えたことでした。</p>
<p>当時の欧米人にとっては、日本人と聞くとハラキリが思い浮かぶほど、両者は切っても切れない関係でした。中産階級以上で新聞を読む習慣のあった欧米人は、日本で開国当初フランス当局との間にハラキリを介した諍いが勃発していたことを知っていたでしょう。</p>
<p>そのような日本人と西欧人の諍いは数件あったようですが、とりわけ有名になったのは、開国直前の江戸末期、1868年３月８日に堺港で勃発した『堺事件』でした。</p>
<p><img class="alignleft wp-image-268 size-medium" src="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/osaka-castle-1398125_1920-300x168.jpg" alt="" width="300" height="168" srcset="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/osaka-castle-1398125_1920-300x168.jpg 300w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/osaka-castle-1398125_1920-768x431.jpg 768w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/osaka-castle-1398125_1920-1024x574.jpg 1024w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/osaka-castle-1398125_1920-728x408.jpg 728w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" />フランス海軍の軍艦が堺港へやってきて、数十名のフランス人水平が大阪に上陸しました。当時堺港はフランスとの条約により、例外的に外国人に開港されていた数少ない港の一つでした。</p>
<p>しかしそのことを知らなかった土佐藩兵はフランス人水兵を取り締まろうとしました。</p>
<p>しかし言葉が通じなかったこともあり、フランス人水兵側はそれに従がおうとはせず、土佐藩の隊旗を奪った挙句逃亡しようとしました。その結果土佐藩兵はついにはフランス水兵に発砲し、フランス水兵11名が亡くなりました。</p>
<p>当時大阪に駐留していたフランス公使は、この事件について激怒し、江戸幕府、土佐大名に対して、殺害を犯した土佐藩兵の処刑と賠償金を請求しました。その結果事件に関わった土佐藩兵のうち20人が切腹にて自害することが決定されました。<img class="alignright wp-image-322 size-medium" src="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/SakaiJiken-300x202.jpg" alt="" width="300" height="202" srcset="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/SakaiJiken-300x202.jpg 300w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/SakaiJiken-768x518.jpg 768w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/SakaiJiken-1024x690.jpg 1024w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/SakaiJiken-728x491.jpg 728w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/SakaiJiken.jpg 1438w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p>フランス公使自身はハラキリに立ち会うことを拒否しましたが、部下である指揮官に見届けるよう指示しました。</p>
<p>フランスでは革命以来ギロチンで人の首を切ったり、二人の男性が決闘をしてどちらかが命を失う、ということはありました。</p>
<p>しかしフランスでは自死を眺める、ということは文化的には受け入れられない行為でした。まず自死はキリスト教では禁止されていました。</p>
<p>その意味でハラキリ以上に日本文化が西欧文明とは異なることを象徴した事柄はなかったでしょう。</p>
<p>11名の侍がハラキリを断行した後、フランスの指揮官は12人目の侍がハラキリをすることを辞めさせました。彼自身強い衝撃を受けたことでしょう。</p>
<p>ちなみにフランスの指揮官は「ハラキリがみせしめとなるどころか、殺人者だった侍はハラキリによって英雄となった」と記録したそうです。</p>
<p>『堺事件』については、新聞などを通じて、ヨーロッパでも広く知られていました。そんなこともあり、ヨーロッパの人々は日本人に特有なハラキリについて興味津々だったのに違いありません。</p>
<p>フラー女史はこのことに目をつけ、普通ハラキリは武士がするものですが、あえて<strong>日本人女性</strong>の花子にハラキリのシーンを演じさせました。フラー女史自身が演技指導も行ったと言います。</p>
<p>花子は当初女性としてハラキリのシーンを演じることを嫌がったと言いますが、フラー女子の期待に応え、見事に演じ切りました。</p>
<p>花子の演技を通じて、西欧人は自身の認識世界に合わせた形で、噂に聞いたハラキリを疑似体験することができました。怨念と悲哀の激しい情念のこもった花子の演技は迫真に迫るものがありました。</p>
<p>それは単に欧米人が、あたかも古代ローマのグラジエーターの再現であるかのように、日本人の野蛮性を面白がったということではありません。</p>
<p>野蛮性を楽しんだ、という側面は否定し得ないかもしれませんが、欧米の人々は、花子の白熱のハラキリの演技を通じて、日本の武士道の一端を感じ取ることができました。</p>
<p>幕末の日本人は欧米の文明に圧倒されながらも日本人としての強烈なプライドを持っていました。コンプレックスもあったのですが、同時に当時の日本人にはそれをはねのけるほどの、強い自己アイデンティティーも持ち合わせていたのです。</p>
<p>ひさはその武士道の精神を言葉を介さず演技のみでヨーロッパ人に理解させることができる、数少ない日本女優でした。</p>
<p>フラー女史の周到な演出によって準備された花子のハラキリは、フラー女史のもくろみ通り欧米諸国で大きな反響を巻き起こしました。</p>
<p>フラー女史は次のように書いています。</p>
<p>「怖くなった子供のような動作やため息や木津ついた鳥のような鳴き声で身体を丸めて、重い縫取りされた着物の中に細い姿を消した。顔は化石になったように不動であったが、目では激しい正気を表した。しまいに眼を見開いて彼女に迫り来る死を眺めた。身震いさせるほどであった。」115</p>
<p>別のヨーロッパ人は次のように書いています。</p>
<p>「舞台の前に座って、早口に喋りながら、花子が化粧している。すると嫉妬に狂った彼女の愛人が後ろから忍び寄って、スカーフで首を絞める・・・・この短い芝居の内容を理解し楽しむために、私は日本語なんか一言も知る必要はないのだと。」（ドナルドキーン著作集　349頁）</p>
<p>その後フラー女史は「芸者の敵討ち」に加え、「受難者」「吉原における悲劇」などの武士社会の悲劇を描いて、欧米における花子ブームを支えました。</p>
<p>そのうちヨーロッパの人々も徐々にハラキリ・シーンに飽きて、花子の女優としての人気も次第に衰退していきました。（ドナルドキーン著作集、115-117頁）</p>
<p>ひさは日本に帰国しつつ、大正10年に53歳になるまで、花子としてヨーロッパ、アメリカなどの18国を巡業し続けました。</p>
<p>その間に日本人と結婚しましたが、結婚生活は長く続きませんでした。夫は結婚からわずか４年後になくなってしまったからです。</p>
<p>その後ひさは日本に引き上げ、穏やかな余生を生まれ故郷である岐阜で暮らしました。</p>
<h2>ロダンと花子</h2>
<p>ロダンは花子のこのハラキリのシーンを見て強い衝撃を受けました。</p>
<p>彼は偶然南フランスのマルセイユで花子の演劇を見て、即座に花子に自分のモデルになるよう請い願ったのです。</p>
<p><img class="alignleft wp-image-262 size-medium" src="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/ロダン女性-225x300.jpg" alt="" width="225" height="300" srcset="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/ロダン女性-225x300.jpg 225w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/ロダン女性-768x1024.jpg 768w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/ロダン女性-728x971.jpg 728w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/ロダン女性.jpg 1440w" sizes="(max-width: 225px) 100vw, 225px" />ロダンのエピソードによって、花子のハラキリシーンが二流演劇のまがいもの、ヨーロッパ人が作り上げた似非芸術ではなかったことが伝わります。</p>
<p>なぜならロダンは超一流の彫刻家として、本物を見分ける目を持っていたからです。</p>
<p>例えば、ロダンはジャポニズムに興味があったから花子に声をかけたわけではありませんでした。</p>
<p>ロダンは、印象派の画家ほどには強くジャポニズムに傾倒していなかったそうですが、日本美術、文化については人並みの関心と情報を持っていました。</p>
<p>ロダンはひさに出会う前の1900年頃から日本の浮世絵、工芸品などをコレクションしていました。ロダンが入手したのは、輸出用に準備された19世紀に制作された工芸品、浮世絵などでした。</p>
<p>ロダンの日本への関心を決定的なものにしたのは、ジャポニズムではなく花子でした。</p>
<p>花子は演劇と同様の白熱の演技で持って、ロダンの彫刻制作のモデルを引き受けました。ロダンの助手は次のように語っています。</p>
<p>「花子は普通の人のようにポーズしなかった。その顔はいつも冷たい、恐ろしい激怒に歪められていた。虎に似ていて、その表情は我々西洋人に全然似合わない。日本人が死に臨んで発揮する意志の力で、何時間たっても花子は同じ表情を保った。」（ドナルド・キーン著作集、117頁）</p>
<p>ドナルド・キーン博士は花子とロダンの関係を次のように解説しています。</p>
<p>「彼女は死ぬ時に、死ぬ必要を感じた時に、死ぬことができたのです。自分を殺せたのです。そういうようなところが日本の女性にあったのです。一方では美に対する憧れ、夢見る心など、がありました。ロダンは見事にその二つの女の傾向を捕まえたのです。」（ドナルド・キーン著作集、117−118頁）</p>
<p>花子は体裁などを気にせず、自分のすべてをさらけ出して、マイナスとも思える感情を体全体、魂全体で表現することを厭いませんでした。そういう珍しい個性の持ち主だったのです。</p>
<p>ですからロダンが創作した花子の像、スケッチに表現された花子の表情は、けっして女性らしさがほとばしるような古典的美しさではありません。</p>
<p>またオリエンタリズムにありがちな、異国情緒に溢れた衣服に身をまとった官能的で肉感的な女性でもありません。</p>
<p>作品にもよりますが、見方によっては、ロダンがアジア人に対して差別意識を持っていて、花子をあたかも動物か何かのように捉えている、と感じ取れるような作品もあります。</p>
<p>しかしロダンが完成させた像の奥からは、こうした奇妙な表情と裏腹に「恋も苦痛も知ったかわいそうな人間」が感じられたそうです。</p>
<p>なぜならロダンは花子の恐ろしい形相をしたマスクにも、人間としての彼女自身の魂を表現していたからです。（ドナルド・キーン著作集、117頁）</p>
<p>ロダンの花子像としては、特に死顔が有名です。それは文字通りロダンが感動したハラキリのモーメントを永遠のものとすべく、彫りあげた作品でした。</p>
<p>最後にロダンは、花子の精神性だけではなく、欧米の女性とは異なる、花子の肉体にも強く惹きつけられたことを加えておきます。</p>
<p>「この女にはまるで脂肪がない。彼女の筋肉は、フォクステリアと呼ぶ小さい犬の筋肉のように、はっきりと見えて出ています。その腱の強い事と言ったらその付着している関節の大きさが四肢の関節の大きさと同じくらいなのです。彼女の強靭なことは、一方の脚を直角に前方へ挙げて一本の脚だけで自分の好きなだけ長く立っていられるのです。まるで木のよう地面へ根を張っているようです。ですから彼女はヨーロッパ人の解剖阻止区とは全然違うものを持っているのです。それでいてその奇妙な力の中に立派な美があります。」（「ポール・グゼル筆録　ロダンの言葉」　（高村光太郎訳）</p>
<h2>ロダンが見た花子という人</h2>
<p>ここまで、主に芸術を通じて見た花子とロダンの関係についてまとめました。</p>
<p>では花子とロダンの関係は、芸術を超えた男女の関係だったのでしょうか。ロダンは多くの女性の弟子と愛人関係になっていたので、花子とも一次的に恋人関係になった可能性は否定できません。</p>
<p>ただこの二人の芸術家の関係には、そうした一時的な関係以上の結びつきがあったことは確かです。資延氏によれば、ロダンと花子を結びつけたのは、二人とも遅咲きの芸術家だったことだったといいます。</p>
<p>芸術家として苦労して現在の位置を達成したこと、特に花子は、モデルをしながら、ロダンが仕事に専心する姿を見て、深く感化されたと言います。</p>
<p>その結果二人はなかなか思うように作業が進まなかったのにもかかわらず、辛抱強く、お互いを尊重して、仕事を続けたといいます。</p>
<p>いくら天才とは言えロダンも時代の影響を免れることはできません。</p>
<p>ロダンは当時の平均的な教養あるヨーロッパ人がもっていた、日本についての偏見、無知などが合わさった、日本人から見たらそれこそ「奇妙な」な日本のイメージを持ち合わせていたことでしょう。</p>
<p>ただ天才的な芸術家だったロダンには言葉、文化、情報を超えて、人間の真実を見通す力も備わっていました。そして直感的に花子という人格、そしてそこに表現される日本の武士道を理解し、それを芸術作品として表現しました。</p>
<p>この意味でロダンの花子への目線は、西欧社会が非西欧社会を見下して植民地支配を正当化し得た「オリエンタリズム」を超えていました。</p>
<p>ロダンと花子の関係性には、フランス人男性と恋愛をするときのヒントが隠されています。つまり、見識あるフランス人男性と付き合っていくためには、自分も相手と平等な立場で、何か相手を感化できる個性を持つ必要がある、ということです。</p>
<p>なぜならロダンはただ顔が綺麗なだけでは、花子の彫刻を作ろうとは思わなかっただろう、と思われるからです。</p>
<p>花子がロダンのような彫刻家とも親しくなれたのは、彼女が一眼で相手を魅了するほどの個性の持ち主だったからです。</p>
<p>それが、花子が周りの日本人と花子の異なる点でした。それは彼女のそれまでの人生の生き様、そして彼女が元来持つ強い内面の力に負っていました。</p>
<h2>終わりにーロダンと花子の関係から何を学べるか</h2>
<p>ロダンのようなフランス人男性はもちろん例外的な存在です。一般的なフランス人男性とは異なります。</p>
<p>それでも<strong>フランス人男性</strong>が本気で恋愛をするとき、何らかの起爆剤が必要となります。それは個性と個性のぶつかり合い、と言ってもいいかもしれません。</p>
<p><img class="alignleft wp-image-265 size-medium" src="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/ロダン１-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" srcset="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/ロダン１-300x200.jpg 300w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/ロダン１-768x511.jpg 768w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/ロダン１-1024x681.jpg 1024w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/ロダン１-728x484.jpg 728w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" />現在の日本社会ではこの起爆剤が失われつつあるように思えます。それは物質文明が発達しすぎて、人間の本性をむき出しにする機会がなくなってしまった結果です。</p>
<p>携帯電話、SMSなどの発達によって、日本人は顔と顔を突き合わせることによって培われる人間臭い関係を失いつつあります。</p>
<p>それは恋愛を具体的に始めていく場を失いつつあることを示しています。</p>
<p>携帯のスクリーンではなく、五感によって嗅ぎ分ける動物臭の漂う具体的な「場」です。</p>
<p>日本と同じような物質文明を持つフランスですが、恋愛に必要となる野生的本能のようなものは、日本に比べたらまだ残っています。</p>
<p>例えば一ヶ月、人々は仕事をしないで自然の中で戯れます。日曜日には全ての消費活動を休止して、人々は精神的にリラックスしようとします。</p>
<p>そのような時間を持つことで、人々はありのままの自分に立ち返ることができます。</p>
<p>フランスではお互いの素性がよくわからないうちに、ある種の動物的勘によって恋愛が始まることがよくあります。同じ電車の車両に乗り合わせたり、近所だったり、休暇先で出会ったり、などの偶然による事柄です。</p>
<p>フランス人男性と渡り合って行くためには、この素としての自分自身を激しく相手にぶつけていくことがコミュニケーションの一部として欠かせません。二つの個性が持続しないと、関係も持続しにくいでしょう。</p>
<p>花子は言葉が通じなくともヨーロッパでは不自由しなかったと言います。彼女は全てジェスチャー、身振りでコミュニケーションを取ることができたからです。</p>
<p>平均的日本人と比べて、花子はより強い自我を持つとともに、それを客観的に外国の人にもわかる形で表現できる演技力を持っていました。</p>
<p>花子はフランス人男性と結婚したわけではありません。恋愛をしたわけでもありません。しかし花子の生き様からは、素の状態で、人生に体当たりでチャレンジする姿が浮かび上がってきます。</p>
<p>花子から感じ取れるのは、そんな明治の日本人女性のあっぱれな姿です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>参考文献</p>
<p>資延勲　文芸社、マルセイユのロダンと花子</p>
<p>ドナルド・キーン著作集　７　３４７−３５９頁</p>
<p>ドナルド・キーン著作集　４　１１３−１２３頁</p>
<p>ポール・グゼル筆録　ロダンの言葉　高村光太郎訳</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>『蝶々夫人』や『ミスサイゴン』は実話だった：ロチとお兼</title>
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		<pubDate>Mon, 27 Aug 2018 04:46:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[francechapeau]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[フランス人男性]]></category>
		<category><![CDATA[ミス・サイゴン]]></category>
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		<description><![CDATA[フランス人男性と日本人女性が国境や文化の差を超えて、恋愛や結婚をするようになって、およそ250年。その始まりは...]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>フランス人男性</strong>と日本人女性が国境や文化の差を超えて、恋愛や結婚をするようになって、およそ250年。その始まりは、200年以上続いた鎖国をやめて開国した明治時代のことでした。</p>
<p>ここでは初めてフランス人男性とエロチックな関係を結んだ日本人女性の一人お兼とそのパートナーでその後フランスの国民的作家となるピエール・ロチの関係について紹介します。</p>
<p>お兼と言ってもピンと来ないかもしれません。</p>
<p>でもオペラの『マダム・バタフライ』（蝶々夫人）ミュージカルの『ミス・サイゴン』のモデルとなった日本女性と言えば、日本でもお馴染みだと思います。お兼とはその原作の主人公のモデルとなった実在の日本人女性です。</p>
<p>明治開国から間もない時代、お兼とロチはどこで出会ったのでしょうか。言葉が全く通じずに互いの文化についてもまったくわからない二人の関係とは、一体どんなものだったのでしょうか。そしてお兼はどのような経緯から、蝶々夫人、ミス・サイゴンへと繋がって行ったのでしょうか。</p>
<h2>お兼とピエール・ロチ(Pierre Loti)</h2>
<p>お兼は1885 年に故郷の長崎市でフランス人の船乗りと出会います。名前はピエール・ロチ。</p>
<p>ピエール・ロチという名前は今日の日本ではあまり馴染みのないフランス人かもしれません。</p>
<p>ロチは19世紀末には、フランスはもとより世界的に人気を博した（当時の世界とは欧米社会を指す）作家でした。本国フランスにおいてロチは41歳の若さで、作家としては最高の地位、アカデミーフランセーズの会員に任命されたほどの一流の作家でした。</p>
<p>ロチの小説は独特の哀愁と甘美な異国情緒を放つその文体に特徴がありました。それはロチが二つの職業を持っていたことに由来します。</p>
<p>ロチは作家である前にまず海軍軍人でした。そのため当時一般のフランス人が成し得なかった世界旅行に出かけることができました。</p>
<p>ロチはヨーロッパ以外の地域、コンスタンチノープル、タヒチ、セネガル、日本などを軍艦で訪れ、現地の女性との恋愛を通じてその土地の風習を知り、それを小説として表現しました。</p>
<p>ロチが描く異国情緒あふれる『楽園的生活』は同時代の印象派のゴーギャンの『タヒチの女』などの絵画に似ています。エキゾチックな女性の描写は19世紀後半から20世紀初頭にかけて、植民地帝国フランスが拡大しつつあった時代に特徴的なテーマです。</p>
<p>ロティは軍人として二度日本を訪れました。一度目は1885年、二度目は1900-1901年のことです。</p>
<p>南の国の官能的な恋愛小説を得意とするロチにとって、喜怒哀楽を表に表さない日本人はそれだけで物足りない存在でした。さらに当時の多くの欧米人と同様に、ロチにも欧米社会以外の国を見下す傾向がありました。</p>
<p>そのためロチの日本に対する態度も好意的なものではありませんでした。</p>
<p>この点が江戸時代から明治時代にかけて活躍した親日家のラフカディオ・ハーン、シーボルト、そしてクーデンホーフ・カレルギー伯などの西欧人とロチが決定的に違う点でした。腰を落ち着けて日本を知ろうと努力するのではなく、日本はあくまでも通りすがりの国だったのです。</p>
<p><img class="size-medium wp-image-376 alignleft" src="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/battleship-1688093_1920-300x169.jpg" alt="" width="300" height="169" srcset="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/battleship-1688093_1920-300x169.jpg 300w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/battleship-1688093_1920-768x432.jpg 768w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/battleship-1688093_1920-1024x576.jpg 1024w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/battleship-1688093_1920-728x410.jpg 728w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" />ロチは1回目の滞在で知り合った日本人女性お兼と一ヶ月一緒に暮らし、この体験をベースに日本についての小説を書きました。</p>
<p>当時欧米ではまだ日本の実情がよく知られていなかったため、ロチは後で日本について書けばお金儲けになると考え『お菊さん』という小説を書いたと告白しています。</p>
<h2>明治日本、19世紀末のフランス、そしてジャポニズム</h2>
<p>なぜロチは日本がお金になると考えたのでしょうか。そのきっかけは当時のフランス、欧米における日本美術ブーム、すなわちジャポニズムでした。</p>
<p>19世紀後半から20世紀にかけて、ヨーロッパの主要都市では万博が開催されました。そこでは国際貿易を伸長するために、欧米以外の異国の文化、工芸品、美術が幅広く紹介されました。</p>
<p>日本は欧米諸国の植民地ではありませんでした。しかし日本人もヨーロッパ各地の万博へ招待され、日本の伝統工芸品が広く知れ渡るようになりました。実際江戸幕府末期から明治時代にかけて、日本の様々な工芸品、浮世絵、着物などが大量にフランスへ輸出されるようになりました。</p>
<p>当時のインテリ階級の間では、日本の品々をコレクションして家に飾ることが流行しました。</p>
<p>ゴッホやマネなどの印象派の絵画を見ると、肖像の背後に日本の品々が描かれていたり、キモノをまとった西洋の女性が描かれたり、と日本趣味には事欠きません。また日本の工芸品は、絵画以外にも花瓶、家具などにも応用され、アール・ヌーヴォーが誕生しました。</p>
<p>旅行が自由にできない時代、日本好きのインテリ層のフランス人男性は、浮世絵、着物、漆器、陶芸品などの日本独特のモノを通じて日本についてのイメージを膨らませました。またフランスの一般市民も、日本の品々が描かれた印象派の絵画、浮世絵、着物などを目にする機会が増えました。</p>
<p>このような状況で、小説家のロチは日本について小説を書けばお金になると考えました。</p>
<p>1885年に初来日したロチは長崎に一ヶ月ほど滞在しました。当時の日本は開国して文明開化、西欧化が進みつつありました。しかし大半の日本人は人力車、お歯黒、着物などの伝統的な風習の中で生きていました。</p>
<p>その一方で、当時のフランスは世界的に見て最も文明が進んだ国の一つであり、自動車、カメラなどの文明の利器も出現し始めました。</p>
<p><img class="wp-image-241 size-medium alignright" src="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/セーラー帽-300x199.jpg" alt="" width="300" height="199" srcset="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/セーラー帽-300x199.jpg 300w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/セーラー帽-768x510.jpg 768w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/セーラー帽-1024x681.jpg 1024w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/セーラー帽-728x484.jpg 728w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" />鉄骨でできたエッフェル塔が完成したのは1889年のことです。フランス革命100周年を祝すためにできたこの鉄骨製のモダンな塔の存在は、石造建物に慣れたパリ市民の間で物議を醸し出しました。</p>
<p>ロチ自身は中産階級の出身でしたが、彼はヨーロッパの上流階級の名残が残る誇り高きフランス海軍士官となりました。</p>
<p>そんなロチにとって、いくらフランスでジャポニズムが人気を博しているとはいえ、真夏の長崎で木と紙でできた家で暮らしながら目に入ってくる日本の風物を見て、前近代的と感じたことでしょう。</p>
<p>例えばロチは「ヨーロッパ人男性が歩いていると、十五歳前後の若い娼婦たちが寄ってきて売春を促した」と日記に書いています。</p>
<p>この頃フランスでは女子の初等教育の義務化が始まっています。通りで10台半ばの若い女性たちが娼婦として群がってくるというのは、当時のフランスではありえない状況でした。</p>
<p>ロチが初来日した時、彼は35歳で独身でした。日本に到着するやいなや外国人との婚約、結婚の仲介をする日本のエージェントを通じて、日本人女性を紹介してもらいました。</p>
<p>彼女の母親、姉妹、叔母に加え、ロチの家主の家族が見守る中当時の日本の習慣に従ってロチは「1ヶ月毎に更新する条件付きの結婚」を果たし、それは地方の警察にも登録されました。ロチの日記によれば、18歳の相手「お兼さんは恥ずかしそうにして、目を伏せていた」そうです。</p>
<p>この「結婚」というのは、当時の日本やフランスの結婚とは異なるものでした。</p>
<p>結婚というと聞こえはいいですが、要は、国を介したオフィシャルな愛人契約でした。ロチの乗っていた船には４人の船員がこの１ヶ月の結婚を果たしたそうです。</p>
<p>ちなみにロチは日記に「結婚した」と書き記しながら、毎月２０ピアストルをオカネ・サンの親に支払う、という条件については何も書き残していません。</p>
<p>そのため今日フランス版のWikipediaのピエール・ロチの記事を読むと、ロチがお兼と正式に結婚したというニュアンスで紹介されていますが、これは明らかに間違いです。この記事を書いた人は多分当時の事情について知らずに、ロチの日記の言葉尻だけ捉えてこの記事を書いたと想像されます。</p>
<h2>ロチの日記から読み取れるオカネ・サン</h2>
<p>ロチは日本ひいきではなく、日本に対してとりわけ関心を持っているわけでもない、通りすがりのフランス人でした。</p>
<p>ロチの日本に対する態度は、フランス、ヨーロッパの大半の人々と同じものであるため、ロチの書く小説も多くの西欧人の共感を呼びやすい内容となりました。</p>
<p>ロチとお兼の間には、言葉、文化の違いに由来する大きな心理的壁が存在したことは当然予想できます。実際二人は物理的に一緒にいても意思疎通をはかるすべを何も持ちませんでした。</p>
<p>ロチは日記の中でしばしばお兼をモノに例えています。それは屏風や茶碗の絵だったり人形だったりします。</p>
<p>『オカネ・サン、この小さなオカネ・サン、僕はその絵姿を、屏風や茶碗の底など至る所ですでに見てきた。人形のように愛くるしいこの顔、なめらかでうわぐすりをかけたような漆黒のこの美しい髪、淑やかなお辞儀のためにいつも前屈みになっているこの特殊な物腰、背中で大きく膨らませて結んだこの絹でできた帯、広い幅の垂れるこの袖、脚の下に張り付いて、トカゲの尻尾のような引裾を作るこの着物・・・この陶磁器の小僧と向き合って一人で家にいると、僕は泣きたいほど悲しくなるのだ。』（２７−２８頁）</p>
<p>あたかも浮世絵に描かれた日本人女性がそのまま見た目だけ文章化されたかのようです。以下はお兼さんが昼寝をしていた時の状況です。</p>
<p>「オカネ・サンは畳の上に腹ばいになって昼寝をしていた。高い髪とかんざしが長く伸びた寝姿の上に突き出し、着物の小さな引袖のためにほっそりした体がさらに長く延びた。十字に伸ばした腕は、羽のように広がっていた・・・。」（48頁）</p>
<p>オカネ・サンの母親が見かねてオカネ・サンを起こそうとするとロチは言いました。</p>
<p>「カカ・サン、そのままにしておいてやりなさい。この女はこうしている方がずっと僕の気に入っているのだから！」</p>
<p>「この小さなカネが、いつも眠っていることができないのは残念なことだ。こうしていると彼女は装飾にうってつけだし、それに少なくともぼくをうんざりさせない。ぼくは確かにこの人形の頭の中で起こっていることを深く知るまでには、まだ彼女の国語がよく話せない。そしてとどのつまり、その頭の中では何かが起こっているのだろう。だが、それを知ろうとする興味はぼくにはないーそれはぼくにとってどうでもいいことなのだ。」</p>
<p>お兼は自ら進んで感情を表に表すことをしないタイプの日本人女性でした。ロチはそれに対して不満、苛立ちを募らせていきます。</p>
<p>しかしたった１ヶ月の日本滞在で、もともと関心のない日本人女性と本当に意思疎通をすることを望んでいたとは考えられません。</p>
<p>ロチの苛立ちには、彼がこれまで体験してきた南国と日本の事情が異なることも関係していると思われます。彼は南国の女性と<strong>日本人女性</strong>の違いを次のように比較しています。</p>
<p>「ここにあるものは全て何かが欠けている。正気のない真似事に過ぎないというべきだろう。そしてぼくはもの悲しく自分にこう問いかけるー夏の輝かしさとは本当にこんなものでしかないのかー。」（49頁）</p>
<p>ロチは、他の南国と同様、日本の暑い夏に見合う情熱的な恋愛を期待していました。それは男性中心的な性愛を中心とした恋愛と言ってもいいでしょう。しかしその期待が叶わなかったからこそ日本、日本人女性への失望がさらに深まっていったのです。</p>
<p>ロチの目から見ると前近代的に見えた長崎での生活ですが、当時の日本は世界的な資本主義体制の中に組み込まれつつあり、近代化が急速に進んでいました。その点が日本とロチが訪問したそれまでの異国とが異なる点でした。</p>
<p>資本主義は全ての関係をお金を介した関係へと変えて行きます。ロチとお兼が金銭によって繋がっていることが、何よりもそれを象徴しています。</p>
<p>ロチは確かにこれまでにも様々な異国女性との体験を小説にして来ました。しかし日本では、ロチはお金を支払って「一ヶ月ごとに更新する結婚」という名の売春を買いました。</p>
<p>ロチは自分自身のこの行為をどう感じていたでしょうか。プロテスタント教徒として、少なからず罪悪感を覚えたのではないでしょうか。</p>
<p>本国フランスでは、同じ屋根の下に暮らす女中に手を出すということはありましたが、18歳の若い女性を金で買って結婚という名目のもとに一緒に暮らす、などということはありえない状況でした。</p>
<p>ロチは、自分の欲求が満たされない不満を、市場主義経済におけるお金を介した男女の関係性にではなく、お兼の非社交的な態度に起因させました。そしてお兼を、女性、人間として見るのではなく、彼女があたかも景色の一部であるかのように扱ったと考えられます。</p>
<p>ロチは、お兼を非難することによって、お金で擬似的な愛情を買ってそれを小説にしてお金を儲けようとする自分自身に対するやましさから目を背けたと考えられます。</p>
<h2>お兼の気持ち</h2>
<p>では当時18歳のお兼はロチに対してどのような気持ちだったのでしょうか。</p>
<p>これについてはお兼自身が記録を残していない以上本当のところはわかりません。そのためここではロチの日記から類推される、女性としてのお兼の気持ちについて想像してみます。</p>
<p>お兼は、確かにロチが書いたように、平均的日本人女性以上に内気で無口だったことでしょう。でもそれはお兼は近代的で、シニカルな感覚も持ち合わせていたからとも解釈できます。</p>
<p><img class="size-medium wp-image-235 alignleft" src="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/着物女性-217x300.jpg" alt="" width="217" height="300" srcset="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/着物女性-217x300.jpg 217w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/着物女性-768x1064.jpg 768w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/着物女性-739x1024.jpg 739w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/着物女性-728x1008.jpg 728w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/着物女性.jpg 924w" sizes="(max-width: 217px) 100vw, 217px" />家族を養うためにお金を稼がなくてはならず、そのために身を売り、しかし心や感情までも相手に開け渡すことを拒んだと解せるからです。</p>
<p>ロチによれば、タヒチなどの南の島の女性は、少なくとも自分の性的欲望については正直に表現し、自分を相手に委ねたといいます。</p>
<p>ロチはお兼が同じように振る舞わないことに苛立ちを感じたのです。</p>
<p>しかしお兼としては、自身の人としてのプライド、羞恥心から、もしくはロチを好かなかったという理由から、自分の欲望、感情をロチに明け渡さすことをよしとせず、逆に蓋をしたと考えられます。</p>
<p>お金を介した男女の関係としてみれば、ロチとお兼の関係は近代的なもので、現代社会でもよく見かける関係となります。</p>
<h2>お兼のプライドとお金</h2>
<p>さてお兼との擬似的な婚姻関係は、ロチが一ヶ月後長崎から出航することであっけなく終わりを告げます。このシーンは小説『お菊さん』のクライマックスとして再現されていますので、ここで紹介します。</p>
<p>主人公のフランス人男性は、お菊さんに長崎を発つことを告知するために、足音を忍ばせつつ住居の二階へと上っていく。案の定お菊さんは、彼の存在に気づかず、彼からもらったお金がにせ金かどうか投げて確かめていた、という光景です。</p>
<p>このシーンは架空のもので、ロチの創作だと言われています。それはお兼の実際の態度ではなかったのです。ロチの日記によれば、実際のところは「私の手を彼女の手のなかに包み込んで、ちょっと悲しげに握りしめた」ということです。</p>
<p>別れに際しての、お兼の態度は日本人から見ると違和感がありませんが、ロチからみると、他の異国女性の態度とは大きく異なっていました。涙ひとつこぼさずに泣き顔も見せないオカネ・サンの態度に面して、ロチは少なからずプライド、自尊心を傷つけられました。</p>
<p>その結果、ロチはリベンジを果たすために、実際のお兼とは異なるイメージを創作しました。そして「金だけが目当て」の人間的感情の欠如した日本人女性を小説「お菊さん」に描きました。</p>
<p><img class="size-medium wp-image-378 alignleft" src="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/euro-1353420_1920-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" srcset="https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/euro-1353420_1920-300x200.jpg 300w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/euro-1353420_1920-768x512.jpg 768w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/euro-1353420_1920-1024x683.jpg 1024w, https://francechapeau.com/wp-content/uploads/2018/08/euro-1353420_1920-728x485.jpg 728w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" />ロチの小説のクライマックスにお金が登場する、というのは大変興味深い点です。それはロチ自身がお金にこだわっていたことを意味します。</p>
<p>このラストシーンからも、ロチがお金が介在するお兼との関係に罪悪感を持っていたことが想像されます。</p>
<p>その後、ロチはフランスに戻り、スペインとの国境沿いのバスク地方出身の若い女性と結婚し、４人の子供の父親となり、幸せに暮らしたということです。</p>
<p>ロチは自分の妻と愛人を明確に区分けする。当時のフランス人男性としては典型的なタイプでした。</p>
<p>ロチの日本人、日本人女性を見下したかのような小説『お菊さん』はしかしながらフランス、ヨーロッパで大反響を巻き起こしました。そしてその後美しい悲劇『蝶々夫人』へと生まれ変わりました。ちなみに『蝶々夫人』は1904年にヨーロッパで初上演されました。</p>
<p>このオペラの中で、守銭奴的なイメージのお菊さんは、彼女とは真逆のイメージの日本人女性、蝶々夫人に取って変わられました。蝶々夫人は、長崎を舞台に、アメリカの海軍士官に裏切られ、何年も相手の帰りをひたすら待つ日本人女性として描かれました。</p>
<p>それは相手を無条件で一方的に待つことを厭わない、ひたすら受け身で、感情の面では自分が与えるばかりの、日本人女性のイメージです。</p>
<p>哀愁漂うプッチーニの音楽に乗って、その後長らく西欧社会に定着することとなった日本人女性のステレオタイプが誕生した瞬間です。</p>
<h2>終わりにーオリエンタリズムの視点からロチを読む</h2>
<p>最後に、なぜロチの小説に描かれた守銭奴的日本人女性は姿を消して、相手を見返りなく愛し、ひたすら受け身で待つばかりの日本人女性のイメージが生まれたかについても考えてみましょう。</p>
<p>もちろんその方が悲劇のストーリーとして説得力があり面白いから、というのが一番大きな理由です。それに加えて「時代」も大きく影響しています。</p>
<p>19世紀末から20世紀にかけて、ヨーロッパでは東洋の美術、工芸品、そして演劇などを愛好する東洋趣味が流行しました。</p>
<p>これは一般的にジャポニズム（日本趣味）と言われますが、ジャポニズムは広い意味でオリエンタリズムの一部でした。</p>
<p>オリエンタリズムとは、西欧による、西欧とは異なる東洋を含めたオリエントの文化、文明に対する美的、審美的崇拝の態度を指します。</p>
<p>まさに異国情緒がつまった日本の浮世絵などの美術は西欧による美的、審美的賞賛の一例でした。</p>
<p>同時にその背後には政治的力関係も作用していました。なにしろこの時代は西欧列強による植民地化が進んだ時代です。</p>
<p>その結果オリエンタリズムとは、当時の西欧人が、西欧以外のオリエントを美的、文化的には愛でても、政治的、知的には見下した態度を指します。</p>
<p>そしてロチの小説にはこのオリエンタリズムに内包されるダブルスタンダードが見事に表現されています。</p>
<p><strong>フランス人男性</strong>のロチは当時の植民地帝国として『優勢』なフランスを、日本人妻のお兼はフランスと不平等な外交関係を受け入れざるをえない『劣勢』な明治日本の立場を反映している、とも考えられるからです。</p>
<p>小説『お菊さん』に表象されたロチとお兼の関係については、日本ではこれまでロチがお兼を個人的に好かなかった、ロチが親日ではなかったためにそれが小説に反映されてしまった、などとロチの性格を中心に説明されてきました。</p>
<p>しかしながら、ロチとお兼の関係は実際には資本主義社会に特徴的なお金を介した男女の微妙な関係、そして欧米諸国による非欧米諸国の植民地化に象徴する政治的力関係の優劣によって特徴づけられてもいたのです。</p>
<p>そしてお金を通じた愛人関係は受け入れても真の感情の交流を頑に拒んだ日本人女性（お兼）から、支配と同時に感情的にも相手に翻弄され続けることを自ら選んだ蝶々夫人へと変化していきました。</p>
<p>その結果美しいオペラが誕生したのです。しかし同時にこのような日本人女性であるところの悲劇のヒロインは、西欧人が望む日本のイメージであったのです。</p>
<p>オペラ、ミュージカルなどに表現されたアジア、日本のヒロインと西欧の男性の恋愛関係を楽しむ際には、どうかこれらの歴史的背景も思い起こしてくださいね。</p>
<p>参考文献　ピエール・ロチ　お菊さん　（野上豊一郎翻訳）岩波書店</p>
<p>船岡末利　ロチの日本日記ーお菊さんとの奇妙な生活　有隣新書</p>
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