彫刻家ロダンは日本人女性を『芸術の素材』として愛した

日本が開国した明治時代、日本人女性とフランス人を含む欧米の男性の間には人種、ジェンダー、そして不平等条約の壁がありました。

これらの不平等感に加え、日本人女性とフランス人男性の間には、意思疎通を図ろうとしても、お互いの言葉や文化がわからない、という根本的障害がありました。

明治時代に欧米語の翻訳として、初めて「愛」という言葉が日本語に登場しました。当初は概念だけが一人歩きする形で、欧米の文明の全体像が見えず、実際の交流の歴史もない中で、今日私たちがイメージするような国境を超えた恋愛など考えられない状況でした。

そのような状況の中で、日本人女性とフランス人男性の関係は、明治時代において、芸術を通じて始まりました。

その一人が、太田ひさという日本人女性です。ひさは日本に生きていた頃は、特に注目を浴びることはありませんでした。そして 34歳の時渡欧の決意をします。

日本では無名の芸人だったひさは、ヨーロッパやアメリカでは「花子」という名の女優として名声を勝ち取ります。

そしてフランスを代表する彫刻家、ロダンの彫刻のモデルにもなったので、今日でも私たちは彼女の姿を芸術作品として鑑賞することができます。

ロダンは花子の作品を60点ほど残し、花子はそのうちの2作を日本に持ち帰りました。現在世界各地の美術館に展示されています。

花子の一生については、比較的よく知られています。

ここでは何よりも芸術家同士として触れ合った花子とロダンの関係について、日本人女性とフランス人男性という視点から見直していきます。

太田ひさの生い立ち

ひさは江戸末期 (1840年)に生まれ、明治から第二次世界大戦が終結する年1945年までなんと105年にも及ぶ激動の日本を生き抜いた強靭な女性です。

ひさは幼少から34歳で渡欧するまで、明治の多くの女性と同様に、苦労の連続の人生を強いられました。

ひさの生い立ちは幸福とはほど遠いものでした。しかし当時芸事が大変に盛んだった名古屋で育ったため、彼女はのちに欧州で女優として活躍するための土台を築くことができました。

2歳の時親元を離れ、4歳で商家に養子に出されました。その後突如この商家が破産してしまい、ひさの生活は貧しくなりました。

ひさは9歳で旅芸人の仲間入りをしました。文字が読めないのにセリフを覚え、舞台に立ちました。来る日も来る日も岐阜の山をわらじで登って降りての旅の連続でした。

その結果ひさは幼少期に強靭な体力と演技力を身につけました。

後にロダンを驚嘆させるような脂肪の一切ない、筋肉質の体と迫真に迫る演技力を、この時代の地獄のような旅と演技の毎日の産物だったのです。

ひさは辛い旅芸人としての生活を嫌がったため、12歳で舞妓として売られ、さらに芸を磨いていきました。

そして16歳の時に芸者として独り立ちしました。その後二度結婚しましたが、どちらともうまくいかず離婚しました。

ひさ、渡欧を決意する

二度目の離婚の後、 34歳で子供もおらず、身軽な一人身のひさは、デンマークのコペンハーゲンの動物園の見世物興行の踊り子として採用され、自ら渡欧を決断します。

日本人女性が海外へ出ていくのはどのような時か。それは自分の人生にこれ以上にない変化をもたらしたいときです。それまでの人生に何も楽しいことがなかったとき、このような決断をするのはさらに容易いことだったでしょう。

実家から養子に預けられ、その養子先から旅芸人に預けられ、二つの結婚をしましたが子供も生まれませんでした。その結果34歳のひさには恩義を感じるような人のしがらみもありませんでした。

この渡欧の決断には、これまでの、不幸の連続だった人生が背中を押した、と言えましょう。ひさは未知の世界へ飛び込んで行くことが怖くなかったのです。

ひさ、女優「花子」になる。

デンマークでの仕事が一段落した後、ほかの人々が帰国する中、ひさは女優としてヨーロッパに居残る決心をしました。

当時のヨーロッパでは美術、工芸品などの日本ブームで湧いており、それがジャポニズムという本格的な芸術運動を巻き起こしていました。

日本ブームは演劇の世界でも同じことでした。そこで、ひさはまず日本人の劇団に端役として加わりました。

その後ヨーロッパにおける日本演劇ブームの火付け役となったイギリスの目利きプロデューサー、フラー女史に認めら、ひさの女優人生は大きく好転していきます。

多くのアジア系俳優を見てきたフラー女史にとって、ひさが特別な存在であることは一眼見てすぐわかったと言います。後にフラー女史は、ひさには「綺麗な、上品な、優雅な、奇妙な個性があった」と書いています。

フラー女史は当時端役のひさを引き抜き、ひさを「花子」と命名し、花子一座を立ち上げ、その看板女優へと仕立て上げました。

ひさの抜擢について、周囲の日本人は理解できませんでした。彼らにとってひさは「子守」か「女中」のようにしか見えなかったと言います。

ひさの渡欧後の人生には、このようにシンデレラ・ストーリーのような側面がありました。

19世紀末のヨーロッパとハラキリ

フラー女史は、西欧人のツボにハマるように、ひさが演じていた二流の日本演劇の脚本に手を加えました。

そこで決定的だったのが、フラー女史自ら、ひさが演じていた「芸者の敵討ち」という劇の最後のシーンに、花子のハラキリの場面を書き加えたことでした。

当時の欧米人にとっては、日本人と聞くとハラキリが思い浮かぶほど、両者は切っても切れない関係でした。中産階級以上で新聞を読む習慣のあった欧米人は、日本で開国当初フランス当局との間にハラキリを介した諍いが勃発していたことを知っていたでしょう。

そのような日本人と西欧人の諍いは数件あったようですが、とりわけ有名になったのは、開国直前の江戸末期、1868年3月8日に堺港で勃発した『堺事件』でした。

フランス海軍の軍艦が堺港へやってきて、数十名のフランス人水平が大阪に上陸しました。当時堺港はフランスとの条約により、例外的に外国人に開港されていた数少ない港の一つでした。

しかしそのことを知らなかった土佐藩兵はフランス人水兵を取り締まろうとしました。

しかし言葉が通じなかったこともあり、フランス人水兵側はそれに従がおうとはせず、土佐藩の隊旗を奪った挙句逃亡しようとしました。その結果土佐藩兵はついにはフランス水兵に発砲し、フランス水兵11名が亡くなりました。

当時大阪に駐留していたフランス公使は、この事件について激怒し、江戸幕府、土佐大名に対して、殺害を犯した土佐藩兵の処刑と賠償金を請求しました。その結果事件に関わった土佐藩兵のうち20人が切腹にて自害することが決定されました。

フランス公使自身はハラキリに立ち会うことを拒否しましたが、部下である指揮官に見届けるよう指示しました。

フランスでは革命以来ギロチンで人の首を切ったり、二人の男性が決闘をしてどちらかが命を失う、ということはありました。

しかしフランスでは自死を眺める、ということは文化的には受け入れられない行為でした。まず自死はキリスト教では禁止されていました。

その意味でハラキリ以上に日本文化が西欧文明とは異なることを象徴した事柄はなかったでしょう。

11名の侍がハラキリを断行した後、フランスの指揮官は12人目の侍がハラキリをすることを辞めさせました。彼自身強い衝撃を受けたことでしょう。

ちなみにフランスの指揮官は「ハラキリがみせしめとなるどころか、殺人者だった侍はハラキリによって英雄となった」と記録したそうです。

『堺事件』については、新聞などを通じて、ヨーロッパでも広く知られていました。そんなこともあり、ヨーロッパの人々は日本人に特有なハラキリについて興味津々だったのに違いありません。

フラー女史はこのことに目をつけ、普通ハラキリは武士がするものですが、あえて日本人女性の花子にハラキリのシーンを演じさせました。フラー女史自身が演技指導も行ったと言います。

花子は当初女性としてハラキリのシーンを演じることを嫌がったと言いますが、フラー女子の期待に応え、見事に演じ切りました。

花子の演技を通じて、西欧人は自身の認識世界に合わせた形で、噂に聞いたハラキリを疑似体験することができました。怨念と悲哀の激しい情念のこもった花子の演技は迫真に迫るものがありました。

それは単に欧米人が、あたかも古代ローマのグラジエーターの再現であるかのように、日本人の野蛮性を面白がったということではありません。

野蛮性を楽しんだ、という側面は否定し得ないかもしれませんが、欧米の人々は、花子の白熱のハラキリの演技を通じて、日本の武士道の一端を感じ取ることができました。

幕末の日本人は欧米の文明に圧倒されながらも日本人としての強烈なプライドを持っていました。コンプレックスもあったのですが、同時に当時の日本人にはそれをはねのけるほどの、強い自己アイデンティティーも持ち合わせていたのです。

ひさはその武士道の精神を言葉を介さず演技のみでヨーロッパ人に理解させることができる、数少ない日本女優でした。

フラー女史の周到な演出によって準備された花子のハラキリは、フラー女史のもくろみ通り欧米諸国で大きな反響を巻き起こしました。

フラー女史は次のように書いています。

「怖くなった子供のような動作やため息や木津ついた鳥のような鳴き声で身体を丸めて、重い縫取りされた着物の中に細い姿を消した。顔は化石になったように不動であったが、目では激しい正気を表した。しまいに眼を見開いて彼女に迫り来る死を眺めた。身震いさせるほどであった。」115

別のヨーロッパ人は次のように書いています。

「舞台の前に座って、早口に喋りながら、花子が化粧している。すると嫉妬に狂った彼女の愛人が後ろから忍び寄って、スカーフで首を絞める・・・・この短い芝居の内容を理解し楽しむために、私は日本語なんか一言も知る必要はないのだと。」(ドナルドキーン著作集 349頁)

その後フラー女史は「芸者の敵討ち」に加え、「受難者」「吉原における悲劇」などの武士社会の悲劇を描いて、欧米における花子ブームを支えました。

そのうちヨーロッパの人々も徐々にハラキリ・シーンに飽きて、花子の女優としての人気も次第に衰退していきました。(ドナルドキーン著作集、115-117頁)

ひさは日本に帰国しつつ、大正10年に53歳になるまで、花子としてヨーロッパ、アメリカなどの18国を巡業し続けました。

その間に日本人と結婚しましたが、結婚生活は長く続きませんでした。夫は結婚からわずか4年後になくなってしまったからです。

その後ひさは日本に引き上げ、穏やかな余生を生まれ故郷である岐阜で暮らしました。

ロダンと花子

ロダンは花子のこのハラキリのシーンを見て強い衝撃を受けました。

彼は偶然南フランスのマルセイユで花子の演劇を見て、即座に花子に自分のモデルになるよう請い願ったのです。

ロダンのエピソードによって、花子のハラキリシーンが二流演劇のまがいもの、ヨーロッパ人が作り上げた似非芸術ではなかったことが伝わります。

なぜならロダンは超一流の彫刻家として、本物を見分ける目を持っていたからです。

例えば、ロダンはジャポニズムに興味があったから花子に声をかけたわけではありませんでした。

ロダンは、印象派の画家ほどには強くジャポニズムに傾倒していなかったそうですが、日本美術、文化については人並みの関心と情報を持っていました。

ロダンはひさに出会う前の1900年頃から日本の浮世絵、工芸品などをコレクションしていました。ロダンが入手したのは、輸出用に準備された19世紀に制作された工芸品、浮世絵などでした。

ロダンの日本への関心を決定的なものにしたのは、ジャポニズムではなく花子でした。

花子は演劇と同様の白熱の演技で持って、ロダンの彫刻制作のモデルを引き受けました。ロダンの助手は次のように語っています。

「花子は普通の人のようにポーズしなかった。その顔はいつも冷たい、恐ろしい激怒に歪められていた。虎に似ていて、その表情は我々西洋人に全然似合わない。日本人が死に臨んで発揮する意志の力で、何時間たっても花子は同じ表情を保った。」(ドナルド・キーン著作集、117頁)

ドナルド・キーン博士は花子とロダンの関係を次のように解説しています。

「彼女は死ぬ時に、死ぬ必要を感じた時に、死ぬことができたのです。自分を殺せたのです。そういうようなところが日本の女性にあったのです。一方では美に対する憧れ、夢見る心など、がありました。ロダンは見事にその二つの女の傾向を捕まえたのです。」(ドナルド・キーン著作集、117−118頁)

花子は体裁などを気にせず、自分のすべてをさらけ出して、マイナスとも思える感情を体全体、魂全体で表現することを厭いませんでした。そういう珍しい個性の持ち主だったのです。

ですからロダンが創作した花子の像、スケッチに表現された花子の表情は、けっして女性らしさがほとばしるような古典的美しさではありません。

またオリエンタリズムにありがちな、異国情緒に溢れた衣服に身をまとった官能的で肉感的な女性でもありません。

作品にもよりますが、見方によっては、ロダンがアジア人に対して差別意識を持っていて、花子をあたかも動物か何かのように捉えている、と感じ取れるような作品もあります。

しかしロダンが完成させた像の奥からは、こうした奇妙な表情と裏腹に「恋も苦痛も知ったかわいそうな人間」が感じられたそうです。

なぜならロダンは花子の恐ろしい形相をしたマスクにも、人間としての彼女自身の魂を表現していたからです。(ドナルド・キーン著作集、117頁)

ロダンの花子像としては、特に死顔が有名です。それは文字通りロダンが感動したハラキリのモーメントを永遠のものとすべく、彫りあげた作品でした。

最後にロダンは、花子の精神性だけではなく、欧米の女性とは異なる、花子の肉体にも強く惹きつけられたことを加えておきます。

「この女にはまるで脂肪がない。彼女の筋肉は、フォクステリアと呼ぶ小さい犬の筋肉のように、はっきりと見えて出ています。その腱の強い事と言ったらその付着している関節の大きさが四肢の関節の大きさと同じくらいなのです。彼女の強靭なことは、一方の脚を直角に前方へ挙げて一本の脚だけで自分の好きなだけ長く立っていられるのです。まるで木のよう地面へ根を張っているようです。ですから彼女はヨーロッパ人の解剖阻止区とは全然違うものを持っているのです。それでいてその奇妙な力の中に立派な美があります。」(「ポール・グゼル筆録 ロダンの言葉」 (高村光太郎訳)

ロダンが見た花子という人

ここまで、主に芸術を通じて見た花子とロダンの関係についてまとめました。

では花子とロダンの関係は、芸術を超えた男女の関係だったのでしょうか。ロダンは多くの女性の弟子と愛人関係になっていたので、花子とも一次的に恋人関係になった可能性は否定できません。

ただこの二人の芸術家の関係には、そうした一時的な関係以上の結びつきがあったことは確かです。資延氏によれば、ロダンと花子を結びつけたのは、二人とも遅咲きの芸術家だったことだったといいます。

芸術家として苦労して現在の位置を達成したこと、特に花子は、モデルをしながら、ロダンが仕事に専心する姿を見て、深く感化されたと言います。

その結果二人はなかなか思うように作業が進まなかったのにもかかわらず、辛抱強く、お互いを尊重して、仕事を続けたといいます。

いくら天才とは言えロダンも時代の影響を免れることはできません。

ロダンは当時の平均的な教養あるヨーロッパ人がもっていた、日本についての偏見、無知などが合わさった、日本人から見たらそれこそ「奇妙な」な日本のイメージを持ち合わせていたことでしょう。

ただ天才的な芸術家だったロダンには言葉、文化、情報を超えて、人間の真実を見通す力も備わっていました。そして直感的に花子という人格、そしてそこに表現される日本の武士道を理解し、それを芸術作品として表現しました。

この意味でロダンの花子への目線は、西欧社会が非西欧社会を見下して植民地支配を正当化し得た「オリエンタリズム」を超えていました。

ロダンと花子の関係性には、フランス人男性と恋愛をするときのヒントが隠されています。つまり、見識あるフランス人男性と付き合っていくためには、自分も相手と平等な立場で、何か相手を感化できる個性を持つ必要がある、ということです。

なぜならロダンはただ顔が綺麗なだけでは、花子の彫刻を作ろうとは思わなかっただろう、と思われるからです。

花子がロダンのような彫刻家とも親しくなれたのは、彼女が一眼で相手を魅了するほどの個性の持ち主だったからです。

それが、花子が周りの日本人と花子の異なる点でした。それは彼女のそれまでの人生の生き様、そして彼女が元来持つ強い内面の力に負っていました。

終わりにーロダンと花子の関係から何を学べるか

ロダンのようなフランス人男性はもちろん例外的な存在です。一般的なフランス人男性とは異なります。

それでもフランス人男性が本気で恋愛をするとき、何らかの起爆剤が必要となります。それは個性と個性のぶつかり合い、と言ってもいいかもしれません。

現在の日本社会ではこの起爆剤が失われつつあるように思えます。それは物質文明が発達しすぎて、人間の本性をむき出しにする機会がなくなってしまった結果です。

携帯電話、SMSなどの発達によって、日本人は顔と顔を突き合わせることによって培われる人間臭い関係を失いつつあります。

それは恋愛を具体的に始めていく場を失いつつあることを示しています。

携帯のスクリーンではなく、五感によって嗅ぎ分ける動物臭の漂う具体的な「場」です。

日本と同じような物質文明を持つフランスですが、恋愛に必要となる野生的本能のようなものは、日本に比べたらまだ残っています。

例えば一ヶ月、人々は仕事をしないで自然の中で戯れます。日曜日には全ての消費活動を休止して、人々は精神的にリラックスしようとします。

そのような時間を持つことで、人々はありのままの自分に立ち返ることができます。

フランスではお互いの素性がよくわからないうちに、ある種の動物的勘によって恋愛が始まることがよくあります。同じ電車の車両に乗り合わせたり、近所だったり、休暇先で出会ったり、などの偶然による事柄です。

フランス人男性と渡り合って行くためには、この素としての自分自身を激しく相手にぶつけていくことがコミュニケーションの一部として欠かせません。二つの個性が持続しないと、関係も持続しにくいでしょう。

花子は言葉が通じなくともヨーロッパでは不自由しなかったと言います。彼女は全てジェスチャー、身振りでコミュニケーションを取ることができたからです。

平均的日本人と比べて、花子はより強い自我を持つとともに、それを客観的に外国の人にもわかる形で表現できる演技力を持っていました。

花子はフランス人男性と結婚したわけではありません。恋愛をしたわけでもありません。しかし花子の生き様からは、素の状態で、人生に体当たりでチャレンジする姿が浮かび上がってきます。

花子から感じ取れるのは、そんな明治の日本人女性のあっぱれな姿です。

 

 

参考文献

資延勲 文芸社、マルセイユのロダンと花子

ドナルド・キーン著作集 7 347−359頁

ドナルド・キーン著作集 4 113−123頁

ポール・グゼル筆録 ロダンの言葉 高村光太郎訳

 

 

 

 

 

 

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