フランス人男性の恋愛と年の差婚 (1):ナポレオンとジョゼフィーヌ

フランスの歴史に名を残した政治家、君主などの伝記を紐解くと年の差婚に遭遇します。

例えばアンリ二世(1519-49)は自身が7歳で捕虜としてスペインへ送られた際、20歳年上のフランス人貴族ディアーヌ・ド・ポワチエの世話になりました。その後成人したアンリ2世は未亡人となったディアーヌを寵姫として迎え入れました。

ナポレオンは10年に及ぶフランス革命を終結させ、帝国を築き、国内を安定化させました。一方ヨーロッパ大陸を支配すべく、10年以上も戦争に従事しました。そんなナポレオンの最初の配偶者は6歳年上のジョゼフィーヌでした。

ここでは近代フランスを築いたとも言われるフランスの国民的英雄ナポレオンとジョゼフィーヌの恋愛と年の差婚について紹介します。

権謀術数に長け武力でヨーロッパ大陸を支配しようとしたナポレオンはどのような経緯から年の差婚をすることになったのでしょうか。周囲の人々は彼らの年の差婚どのように受け止めたのでしょうか。年の差婚はナポレオンの政治支配に関わっていったのでしょうか。

ナポレオンの配偶者、ジョゼフィーヌ

若く無名の軍人だったナポレオンは、恐怖革命直後 (1795年)にパリの民衆の暴動を軍事力で抑えたことがきっかけとなり、時の権力者から注目されつつありました。

当時26歳のナポレオンはそんな政治的混乱と反動的な機運が混在するパリの社交界で、複数の有力政治家の愛人だったジョゼフィーヌと出会いました。

二人が出会った当初、夫を恐怖政治で失ったばかりのジョゼフィーヌはパリ社交界の花形でした。ナポレオンは、コルシカから出てきたばかりの、経験の浅い軍人でした。

二人の力関係は断然ジョゼフィーヌがナポレオンに優っていました。当時のナポレオンは経験があり成熟した女性らしさを身につけた年上の女性、ジョゼフィーヌをとても魅力的に感じました。

ジョゼフィーヌはカリブ海のフランス植民地マルチニック島生まれで、砂糖農園を経営する富裕貴族の娘でした。

ジョゼフィーヌは16歳でフランスへ渡り、貴族の中でも名門のボーアルネ氏と結婚し、一男一女を得ました。しかし夫の暴君的態度に耐えられず、若いジョゼフィーヌは別居を決意し、一旦故郷のカリブ海へ戻りました。

その後フランス革命が始まるとジョゼフィーヌは再び本国フランスの夫の元へ戻りました。恐怖政治の時代には大貴族を象徴する名字が災いし、夫婦共々投獄され、夫は処刑されました。

しかしジョゼフィーヌは運良く処刑を逃れました。恐怖政治が終焉した後、ジョゼフィーヌは夫という財政的後ろ盾を失って一文無しでした。ジョゼフィーヌはパリで未亡人として生きて行くことを余儀なくされました。

彼女はその美貌と人付き合いの良さで、当時もっとも影響力のある政治家を何人も愛人として迎え入れることによって金銭的援助を得て、社交界の花形となったのです。

また洗練された物腰と貴族女性らしい優雅なマナーをもったジョゼフィーヌは、恐怖政治で味わった未曾有の恐怖心を忘れるべく、浪費生活と数多くの恋愛を楽しみました。

後にジョゼフィーヌはナポレオンとの子供ができなかったため離婚を余儀無くされます。前夫との間には子供ができた彼女がナポレオンとの間には子供ができなかったのは、恐怖政治を体験してショックから子供を産めない体になってしまったからだったのではないか、と言われています。

ナポレオンとジョゼフィーヌの出会い

26才のナポレオンがジョゼフィーヌに出会った頃、ジョゼフィーヌは33歳の女盛りでした。当時愛人の一人だった有力政治家バラスはジョゼフィーヌを手放したいと考えており、バラスを通じて二人は知り合ったという説があります。

ナポレオンはジョゼフィーヌを一目見て気に入りました。二人が出会って2週間後にナポレオンは軍の最高司令官に任命されました。それまでナポレオンに対して無関心だったジョゼフィーヌですがこの時からナポレオンを再婚相手候補として見るようになったと言われています。

その結果ジョゼフィーヌは年下のナポレオンにアプローチするために、次の手紙を送りました。

「あなたはあなたを愛している友人に会うことはもうありません。あなたは完全にわたしを捨てました。 あなたは間違っています、わたしはあなたに愛着があります。 明日わたしと一緒に昼食に来てください。 わたしはあなたに会い、あなたの事について話す必要があります。」

これに対してナポレオンはすぐさま返答しました。

「何が理由で、あなたはあのような手紙を書いたか私には想像すらできません。あなたの友情を最も望んでいるのは私以外の何者でもないのですから。また必要とあれば、私は自分の気持ちを証明するために何でもする所存です」

これらの手紙を交換してまもなくしてから、二人の恋愛が始まりました。二人はフランス人ではありましたが、いわゆるフランス本土ではなく南方の出身でした。ナポレオンは16世紀までイタリアの支配下にあったコルシカ島という地中海の島の出身でした。

ナポレオンとジョゼフィーヌの出会いと恋愛はフランス革命の時代に見合ったものでした。正確にはこのころは若いナポレオンが一方的にジョゼフィーヌに対して恋愛感情を抱いていました。ナポレオンにとってジョゼフィーヌとの関係はまさしく初めて本気になった恋愛でした。

多くの男性を虜にしてきたジョゼフィーヌにとって、恋愛経験の浅いナポレオンをその気にさせてしまうことは容易いことでした。ナポレオンはジョゼフィーヌが自分に関心を持ってくれたことを純粋に喜び、彼女に全身全霊を傾けました。

ナポレオンがジョゼフィーヌに魅かれた理由

ではナポレオンは6歳年上のジョゼフィーヌのどこに惹かれたのでしょうか。決め手となった一番の理由は美貌ではありませんでした。

後にナポレオンは、ジョゼフィーヌの「洗練されたマナーと経験知」に惹かれたと告白しています。また当時ジョゼフィーヌの周りにいた人々も次のような証言を残しています。

「ジョゼフィーヌはパリの社交界で一番の美女ではありませんでした。でも彼女は最も魅力的な女性でした。その理由は気分が安定しており、性格がわかりやすく、親切だったからです。彼女の話すフランス語には、カリブ海特有のアクセントがあったことも彼女の女性としての魅力を強め、全ての男性がジョゼフィーヌに魅了される理由でした。」(a)

「ジョゼフィーヌはこの頃まだ若かったです。歯並びが良くなかったので、口を閉じて少し離れたところから見ると、若く可愛らしい女性に見えました。美人とは言えませんが、彼女の持つ独特の何かが、彼女と関わる全ての男性にアピールしました。」(a)

ジョゼフィーヌは当時虫歯に悩まされており、それを隠すために笑うときに必ず口に手を当てていたが、それがまた優雅な所作だったと言います。

このようにジョゼフィーヌは外見的に十分魅了的でしたが、美女と呼ばれるタイプではありませんでした。

しかし彼女は関わる全ての男性を虜にするほどの強烈な外見上、そして内面から醸し出される魅力を持ち合わせており、多くの男性のハートを鷲掴みにしました。

ジョゼフィーヌは肉体的にも、精神的にも、女性らしさ、フェミニンさを全面に押し出した女性だったのでしょう。

南の島で生まれ、育ったためにジョゼフィーヌにはフランス本土で育ったフランス人の貴族女性にはない、ふくよかさ、ナチュラルさ、シンプルさ、また刹那主義的な生き方、そうしたものをすべて持ち合わせていました。

同時にジョゼフィーヌはかつてフランスの超有名貴族と結婚をしていたため、パリ社交界における立ち居振る舞いについても完璧でした。

さらにジョゼフィーヌは人心術にも長けており、当時無名の野心家で孤独だったナポレオンが求めていたもの、気遣い、優しさ、安らぎなどを即座に差し出すことができるような女性でした。

そしてジョゼフィーヌはパリ社交界で新参者のナポレオンを虜にし、年の差婚と相成りました。

ナポレオンとジョゼフィーヌの年の差婚

ナポレオンはジョゼフィーヌと出会った当時地方育ちの裕福な出の女性と婚約をしていました、しかし彼は迷うことなくこの婚約を破談にしました。

ナポレオンは当初ジョゼフィーヌが資産家だったと思っていた節があります。ところがそうでないとわかってからも、彼の結婚の意志は変わらなかったと言います。つまりナポレオンにとっては正真正銘の恋愛結婚でした。

ではジョゼフィーヌの方ではなぜナポレオンとの年の差婚を決めたのでしょうか。

当時のフランスの上流階級では恋愛と結婚は一致せず、ましてや未亡人で無一文となったジョゼフィーヌがナポレオンとただ恋愛感情だけで結婚したとは考えられません。ジョゼフィーヌは自分が若くないことを自覚し、金銭的な理由からナポレオンのプロポーズを受けて結婚したと考えるのが妥当です。

ナポレオンは、その後結婚が引き起こす政治的困難、つまり世継ぎの問題についてはそこまで自覚しておらず、またジョゼフィーヌ自身の思惑についても全く無頓着でした。

ナポレオン個人にとって、恋愛が何よりも勝りました。そして自分の恋愛感情を優先してジョゼフィーヌと年の差婚を果たしました

ところがナポレオンの故郷コルシカに住む実家の人々は二人の結婚を快く思いませんでした。

特に敬虔なカトリックの信者であるナポレオンの母親はジョゼフィーヌが年上で、既婚だった事実については目を瞑ることができましたが、何人もの愛人を持ったジョゼフィーヌを断じて自分の息子にふさわしい結婚相手としては許すことはできませんでした。

そのため、ナポレオンは実家には結婚についてなんの事前報告もせず、ジョゼフィーヌと極秘結婚しました。

革命以来結婚式は役所で執り行われるようになっていました。ナポレオンは自分自身の結婚式に二時間遅れてやってきたと言います。そして仕事が忙しかった、と言い訳したそうです。

実際のところ、ナポレオンはわざと遅刻したのではないかと言われています。ナポレオンは彼特有のエゴイズムで自分が愛している人を含めた全ての人との関わりにおいて、常に自分が優位な立場になることにこだわりました。ナポレオンには感情的に幼稚なところがあった、と言われる所以です。

ナポレオンとジョゼフィーヌは年齢を偽って結婚しました。彼らの婚姻記録には、ジョゼフィーヌは実際年齢よりも3歳若く、ナポレオンは実際年齢よりも3歳年上の年齢が記載されています。

これらのことから6歳の年の差婚といえども、年上の女性と結婚するということは、19世紀初頭のフランスの支配階級では社会的仕来りに反する側面があったことが理解されます。

結婚後のナポレオン

結婚後もジョゼフィーヌの浮気癖は続きました。ナポレオンがしばしば戦場に赴いたためにパリで浮気をするのは難しくなかったのです。また戦場に来て欲しいというナポレオンの要請にも耳を貸すことはありませんでした。

ナポレオンはエジプト遠征中にジョゼフィーヌと美男で若い騎兵大尉との浮気について聞き知り、ジョゼフィーヌに浮気を止めるよう手紙を送りましたが、その手紙がイギリス軍に渡り、イギリスの新聞にすっぱ抜かれてしまいました。

この時ナポレオンは怒り心頭でついにジョゼフィーヌとの離婚を決意しました。しかしジョゼフィーヌの二人の連れ子に嘆願され情を絆し、また自身はジョゼフィーヌを愛していたことから、離婚を思いとどまったそうです。

その後ナポレオンはトントン拍子に出世し、フランス帝国の皇帝の座に就きます。彼の成功は上流階級のマナーを熟知し、人脈が広かったジョゼフィーヌのサポートなしには考えられませんでした。

ナポレオンが皇帝になった頃にはナポレオンとジョゼフィーヌの力関係は逆転していました。その頃ジョゼフィーヌはナポレオンを真摯に愛するようになり、一方ナポレオンは浮気をするようになりました。ナポレオンはパリ以外の土地でジョゼフィーヌ以外の愛人を持ち、私生児も誕生しました。

一方政治的にもナポレオンにとってジョゼフィーヌとの結婚は不都合なものとなっていきました。1804年に世襲制の皇帝の位に就いた後ナポレオン皇帝は現実問題として「世継ぎ」が必要となったからです。

ナポレオンは1806年にプロイセンとの戦争に突入しますが、この時既婚のポーランド貴族女性に一目惚れしました。この女性はナポレオンにとって最もお気に入りの愛人だったと言われています。

ナポレオン法典とジョゼフィーヌ

ナポレオンは「近代民法の祖」と言われるナポレオン法典を編纂しました。ナポレオンはフランス革命以前にあった伝統的な家族観を復活させ、それを近代的な民事的結婚の制度と結びつけました。

ナポレオンはナポレオン法典における家族についての項目を編纂するにあたって、フランス社会の秩序安定化を何よりも優先させました。

自身は恋愛感情から後先について考えずにジョゼフィーヌと年の差婚を実現させたのにもかかわらず、ナポレオン法典では「結婚は家族の地位の維持、向上の手段として重視される」と規定し、結婚を何よりも社会秩序安定の手段と捉えました。

ナポレオン法典において、夫が浮気をした妻を殺すことすらできることになっている(姦通罪)のは、ナポレオンがジョゼフィーヌの浮気に散々悩まされたからだとも考えられます。しかしこれは象徴的なことで、実際フランス社会でこの法律が運用されたことはなかったそうです。

またナポレオン法典は嫡子、婚外子との間に権利上の差を設け、婚外子には相続権が認められませんでした。

ジョゼフィーヌはナポレオンとの子供に恵まれない一方で、ナポレオンには婚外子がいましたが、ナポレオンはこれらの子供を世継ぎにすることはありませんでした。この点でもナポレオンが社会の秩序の安定化を第一義に考えたことがしのばれます。

唯一ナポレオンが自身の状況を考慮して草案したと思われるのが、ナポレオン法典が離婚を認めた点です。この点では自分の世継ぎの問題が頭をかすめたのではないのでしょうか。

そしてナポレオンは1810年にジョゼフィーヌの気持ちを慮って遅れ遅れにしてきた年の差婚をご破算にして、離婚を決意します。そしてオーストリア皇帝フランツ1世と同盟を結ぶために、その長女マリー・ルイーズと再婚しました。

ナポレオンは自虐的に「腹と結婚した」と言ったと伝えられています。ジョゼフィーヌとの離婚はナポレオンにとって大きな心の葛藤が伴う決断でした。

1811年にマリー・ルイズはめでたく男児を出産しましたが、その後ナポレオンはヨーロッパとの戦争に敗れ、敗退したため、世継ぎの問題も消滅しました。

終わりに

離婚によってジョゼフィーヌは大きな心の痛手を受けました。しかし同時にナポレオンから手厚い保護も受けました。彼女は多額の年金を受け取るとともに、離婚後パリ郊外のマルメゾン城に住み、そこで静かに余生を暮らしました。彼女はバラが好きでイギリスなどから珍しいバラをたくさん取り寄せて、美しいバラの庭園を作りました。

ナポレオンがエルバ島に流された後もジョゼフィーヌはナポレオンにできうる限りの支援をしたと言います。一方ナポレオンが生涯をかけて愛したのもジョゼフィーヌでした。彼の臨終の際の最後の言葉は「ジョゼフィーヌ」だったと言われています。

フランス革命の頃から恋愛結婚が始まったと言われるますが、ナポレオンとジョゼフィーヌの恋愛、年の差婚はそれを象徴しています。

 

『ジョゼフィーヌ―革命が生んだ皇后』 白水社、1989年

 

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