今日ファッションの都は世界にあちこちにあります。ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、東京、アントワープ・・・・・・。
今日パリは世界で唯一のファッションの都ではないかもしれません。でもハイファッションに限定すれば、パリは現在でも「世界で唯一のファッションの都」であり続けています。
ハイファッションとはフランス語のhaute couture(オートクチュール)の訳で、日本語で言えば高級ファッションです。プレタ・ポルテ、ストリートファッションではなく、注文服を指します。
パリがハイファッションの都となったのは、18世紀の絶対王政のこと。とりわけフランス革命に断頭台に消えた悲劇の女王、マリーアントワネットは彼女の卓越した美的感性によって、パリを現代に続くハイファッションの世界的都市に押し上げるのに貢献しました。
18世紀後半、パリは世界のファッションの都になった
今日パリ発のファストファッションは存在しません。
その一方でパリの街にはハイ・ファッションを作り出す空気が漂っています。イブ・サンローランやシャネルは、パリ以外の街で誕生することはなかったでしょう。
それはパリには他の都市にはないファッションの歴史的伝統があるからです。フランスにおけるファッションのルーツは厳密には中世にさかのぼります。
でもパリがハイ・ファッションの都となった決め手は、17世紀から18世紀にかけての絶対王政の頃のことでした。それにはおよそ3つの要因があります。
1)フランスが贅沢品の生産国、輸出国としてリーダーになったこと。
2)ファッション、インテリア、コーヒー、ココア、お茶などの新しい習慣や食事を含めて、時代の最先端を行くライフスタイルを作り上げたこと。
3)植民地から様々な資源や新しいスタイルを取り入れることができたこと。
太陽王と呼ばれたルイ14世から始まって、ルイ15世、ルイ16世の妻や愛人たちは、パリファッションのトレンドセッターとなりました。ポンパドール夫人は「私の楽しみは金庫に入っている金について考えることではなく、それを出費してしまうことよ」と言っています。
今日のファッションの都、パリを築いたのは王室の伝統だけではありません。とりわけ1715年はフランスのハイファッションの歴史の分岐点でした。
それまで宮廷を支配していたのは堅苦しいまでのエチケットやマナーでした。1715年以降パリには形式を重んじない、自由な気風が生まれたのです。
当時パリでは上層階級の女性はまばゆいばかりの内装が施された自宅のリビングをサロンとして解放し、顧客を招き入れ、会話を楽しみました。そしてパリにはオープンで都会的な文化が開花したのです。
当時イギリスやアメリカな裕福な旅行者たちはこぞってパリへ旅行に出かけましたが、パリジャンが新しい装いに夢中になっていることを目の当たりにして、強い驚きを示しています。
ある程度裕福なフランスの地方に住むフランス人や、外国人も、当時発刊されるようになったパリ発のファッションを読んで、こぞってパリのファッションを真似しようとしました。
こうした自由な気風、ファッションは古くからの宮廷の伝統とブレンドされることによって、パリは世界のハイファッションの都となったのです。その結果フランスでは、ファッションを「装う人の個性の表現」と捉えられる伝統が誕生しました。
技術革新とファッション
18世紀パリのファッションブレークを下支えしたのは、好調なフランス経済と技術革新でした。とりわけそれまで存在しなかった新しい布、素材が次々と誕生しました。
白いコットンのモスリン、絹や毛のジャージーなどです。
刺繍の入ったベルベットのコート、肘までのズボン、音のするシルクのタフタドレス、パニエによって膨らんだ腰、パウダーのかかった髪型。これらが当時のパリ発の最新のファッションでした。
ファッションブームの立役者、ローズ・ベルタン
パリをハイファッションの都に仕立て上げた立役者が、庶民階級出身の女性、ローズ・ベルタンです。
ベルタンは衣服やレース、羽、ボネ、センスなどのアクセサリーを売るばかりでなく、王室を中心とした顧客に対してスタイリストの役割を果たしました。実際ベルタンはマリーアントワネットのスタイリストとしても知られ、彼女は別名「ファッション大臣」として知られるようになりました。
ロココスタイルから古典主義へ
1770年マリー・アントワネットは14歳でオーストリア・ハンガリー帝国からフランスに嫁ぎます。当時ヴェルサイユ宮殿を含めてヨーロッパ全ての宮廷で、フランス風宮廷服が唯一の模範でした。もちろんマリーアントワネットも当初はそれに従っていました。
それは前開きのゆったりしたローブ・ヴァラントを盛装用にしたもので、後肩に縫い付けられた幅広い平たいダブルプリーツが流れるような裾のラインに特徴があります。
また逆三角形のボディス、数段のレース、薄い布の裾飾り、パニエで左右に大きくはったペティコートなどもその特徴でした。コルセットで胴体をきつく締め付けて胸を高くすることによって、逆三角形のボディーにほっそりしたウエストを強調させていました。
ところがパリの都会文化が育つに従って、次第に伝統的な宮廷のドレスが古臭く見えるようになって行きました。とりわけ締め付け型のドレスや重々しいガウンは旧態依然とした宮廷のしきたりを象徴しているかのように見えたのです。
そんな中でマリーアントワネットはベルタンを自分の衣装係に採用します。「ファッション大臣」に支えられたマリー・アントワネットは、ヨーロッパのファッション女王として君臨しました。
とりわけ自由な気質で美しいものや新しいもの好きだったマリー・アントワネットは、率先してコルセットを外してシュミーズドレスを着用しました。
これは当時の宮廷では「革命」と捉えられるほどの事件でした。シュミーズドレスは当時は部屋着のようなもので、公の場で着用することは考えられませんでした。
ところが当時の記録によれば、マリーアントワネットはシュミーズドレスを着て宮廷の要人とも会見したそうです。このような女王のファッションは宮廷に大スキャンダルを巻き起こすとともに、多くの上流階級の女性がこぞって女王の真似をしました。
その後フランス革命が勃発した後シュミーズドレスはパリで大流行します。そしてパリばかりかフランス全体に普及して行きます。
マリーアントワネットが流行らせたのはシュミーズドレスばかりではありません。彼女は重たい金やパールのジュエリーを嫌がり、手袋、レースのハンカチ、センス、リボン、ストールなどを愛用しました。
マリーアントワネットは宮廷の重たい装いではなく、パリの都会的で軽やかなファッションを好んだのです。そんなマリーアントワネットのファッションは現在のフランス人女性のファッションにも受け継がれています。
例えばストールの掛け方として、フィシュマリーアントワネット、というスタイルがあります。それは四角いストールを三角の形にして女性の頭や肩にかけることを意味しますが、これもマリーアントワネットが流行らせたスタイルでした。
マリーアントワネットはファッションクイーンであり続ける
今日世界中の人々がマリー・アントワネットに抱くイメージは様々です。
日本では悲劇のクイーンとしてマリー・アントワネットは大人気です。マリーアントワネット展が頻繁に開かれています。
本国フランスでは少し事情が違います。人々は政治的な目でマリーアントワネットを見ます。
現在でもフランスにはかつてのフランス王政を支持する人がいますが、彼らはマリーアントワネットに親愛の情を持っているでしょう。しかし大半の庶民のフランス人たちは、マリー・アントワネットはフランス王国の女王に値しない外国の女性だった、と冷たく見放しています。
歴史舞台の中心人物であったマリーアントワネットについての見方が、人や文化によって異なるのは避けられません。しかし文化の視点から見たとき、ファッションクイーンとしてのマリーアントワネットを否定する人はいないでしょう。
マリーアントワネットは唯一愛人を持たない堅物の国王の妻でした。そんな夫はマリーアントワネットにベルサイユ宮殿の娯楽係を命じました。
マリーアントワネットのおかげでベルサイユ宮殿はお祭り気分で盛り上がりました。週に2回のダンスパーティーと演劇。それに加えて多くの儀式、晩餐会。そしておしゃれなファッションや遊び・・・・。
当時それまで固定されていた身分や階級の違いは薄れかけていました。お金のあるブルジョワ階級は金欠のフランス王政から貴族の位を買うこともできました。
そんな社会の流動性と閉塞性が混在する中、ヴェルサイユ宮殿を訪れる全ての人にとっても着飾ることの意味合いが変化して行きます。衣装は身分を表現するものではなく、個人としてのアイデンティティーを示すものへと変化して行きました。
そして個人としてのアイデンティティーからファッションを楽しんだ最初の人がマリーアントワネットだったのです。その意味でマリーアントワネットは現代に続くファッションのあり方を規定した最初の女性、と言えます。
ディオールの専属デザイナーを突如退任したイギリス人デザイナー、ジョン・ガリアノ。
彼は2010年春夏のディオールのコレクションで驚くべき斬新なマリーアントワネットスタイルを復活させました。詳しくは下のブログを訪問して見てください。
http://sfair.blogspot.com.sanityfairblog.com/2010/02/john-gallianos-marie-antoinette.html
マリーアントワネットは今日でもフランスのファッションの女王であり続けています。